yotafool’s blog

印象に残った本や映画の記録。日頃の疑問やその他諸々の忘備録。

アルフォンス・ドーデ 『最後の授業』

児童文学にこんな政治的プロパガンダが込められていることにびっくり。

http://ja.uncyclopedia.info/wiki/最後の授業

lyrics of "The Fools Who Dreams" from La La Land, the film

Leapt, without looking

And she tumbled into the Seine!

The water was freezing 

and she spent a month sneezing 

but said she would do it, again

 

 

Here's to ones who dream

Foolish as they may seem

Here's to the hearts that aches

Here's to the mess we make

 

She captured a feeling

Sky with no feeling 

Sunset inside a frame 

 

She lives in her liquor

and died with a flicker

I'll always remember the flame

 

 She told me

"A bit of madness is key

To give us new colors to see

Who knows where it will lead us?

And that's why they need us

 

 

 

 

「宗教的経験の諸相」W・ジェイムズ著

この講義において、私は、...教会組織のことには少しもふれず、...問題をできるだけ純然たる個人的宗教のみに限定したいと思う。諸君のうちには、そのように純粋な形で考察される個人的宗教は、板がいもなく、宗教という一般名称をになうにはあまりにも不完全なものだと思う人があるかもしれない。諸君はこう言われるかもしれない。「そんなものは宗教の一部分で、まだ組織化されない宗教のきざしでしかない。もしそれにそれだけの名前をつけようと思うなら、人間の宗教というよりも、人間の良心あるいは道徳とでも呼んだ方がふさわしいであろう。 ..」

 

諸君がその方がよいと思われるなら、宗教と呼ばないで、良心とか道徳とか呼ばれるがよい__どちらの名前が与えられても、それは、同じように、私たちの研究に値するであろう。私自身は、個人的宗教は事実、純然たる道徳の含まない要素を含んでいると思っている。そして、それらの要素を、私はやがて指摘するつもりである。(pp.50,51)

 個人的に、初めてキリスト教と聖書にふれたとき、これは道徳や倫理観のとらえ方の一種だと思った。つまり、「○○をするのは正しい・正しくない」「○○をした方がいい」「○○をしては行けない」といった価値判断を、今まで当たり前のように植え付けられて育ってきて、それがなぜいけないのか、それがなぜ価値があるのかという理由まで考えることはなかったけど、キリスト教においては、神様と神様の言葉である聖書が判断基準になる。神様がこう言ってるから、聖書にこう書いてあるから、という理由がちゃんとある感じが新鮮だった。

 

この著者は、個人的宗教(つまり制度として、社会規範としての宗教ではなく個人の信仰)は、道徳の側面だけでなく「宗教」という言葉で定義づけられる何かを含むと言っている。

読み進めるのが楽しみだけれど、どのくらいかかるか未知数…(;´д`)トホホ

彼の名はヤン Er Hieß Jan

このところ、ナチス政権下のドイツに関係する作品との出会いが多い。

映画で、ハンナ・アーレント帰ってきたヒトラー、アイヒマンを追え 

短編小説で、最後の授業

 

今日読んだ「彼の名はヤン」で初めて知り、感じたのは、当時のドイツの人の、ポーランド人やロシア人に対するsentimentが日本人の、韓国人や中国人のそれに対するものと似ていること。ポラッケというのが侮辱的な呼び方として使われてたというのは、まさに「チョン」とか「シナ」と同じだ。

 

戦後から現在のsentimentも共通する部分があるんじゃないかなあ。これはドイツに留学していた先生から聞いた話だけれど、ドイツの大学生は基本的にアルバイトはしない、そんなものは東欧人やロシア人がするものだ、という考え方があるらしい。

 

日本人の、韓国人や中国人に対するsentiment と似てない?自分でも意識しないくらい心の奥底に眠ってる嫌悪感ってあると思う。

 

私の親の世代には、自分の息子が在日の子孫の女性と結婚すると知って大反対した人もいる(その女性のお父さんは日本人なのに、だよ!)

 

もうそんなこと気にする人なんてそんなにいないと思ってた。きっと大都市に住んでるし、同世代の人とばかり話すから、感覚が鈍ってたのかも。

 

国同士が近い分、嫌な部分も含めてたくさん歴史を共有してるんだから、仕方のないことだよね。

遠い国のことを、自分の身の周りの状況に置き換えて、相対化してみると、大きな問題に見えてたことが小さく見えない?なーんだ、他でも同じことは起こるのか〜って。

 そんな風に考えてくれない人がほとんどだと思うけど。

 

だから、そういう不条理に対して戦うのもよし、でも、目をつむるのもいいと思う。本当に自分にとって大切になるときは、ここは、というときは戦ったらいいんじゃないかな。

 

film "Heaven is for real"

息子を亡くした母の

あの時は心の痛みだけが息子との絆だった

というセリフ

小さな男の子が必至の状態から回復した。教会の人がみんな祈ったから、それが叶えられたんだ。"miracle"が起こったんだ、、、

新聞はそういう話にまとめ上げて、

それを読んで、聖書を鵜呑みにするような人(ある意味まっすぐな人)が、教会に集まってくるのは、受け入れがたい、

という下りがあって、

私が留学中に出会ったクリスチャンにはなんとなく「まっすぐ」な人が多いな、って違和感を覚えたことがあったから

そういうふうに考えているクリスチャンもいるんだなって知れた

 

 

なまえ

http://www.bbc.com/japanese/video-39227883

表札を剥がされた→人種差別の標的になっていると感じる というのは納得。

でもそれに対して自分の名前の本当の意味を説明したところでなんの意味があるの?このビデオを作ることになんの解決があるのか

と思ってしまう。

よくわかんない。

在外国人の通称名と本名は気になるテーマなので、ちょっと気になった